「トトロの住む家」(著者:宮崎 駿 出版:岩波書店)
「陰翳礼讃」(著者:谷崎 潤一郎 出版:中公文庫)
昭和の時代に比べると、家の形や家の様相は随分と変化してきました。軒がなくストンとしたシンプルな家が増え、掃き出し窓には大きなサッシが組み込まれている。そんな家が多くなってきたように思います。
アニメーターの宮崎駿氏が庭と家を紹介する本を書かれています。
今から30年近く前に出版され、現在、増補改訂版として出版されています。この本で紹介されている家と庭は、大正、昭和初期に作られたものが多く、豪邸ではなく普通の民家です。現代の基準では豪邸と言える広さかもしれませんが。
宮崎氏が散歩途中で気になった普通の家を訪ねるところから物語は始まります。庭木が大きく成長し、丁度、アニメの「となりのトトロ」で主人公のご家族が暮らされている家を想起させます。
街中で見かけた宮崎氏が気になる民家が氏のイラストと写真で紹介されていきますが、眺めるように読んでいくと懐かしさと同時に私たちが無くしてしまった世界を感じます。それは家と庭木が作り出す「暗闇」です。現代の家では、どの家にも昔あった懐かしい暗闇がすっかり排除されてしまいました。
作家の谷崎潤一郎氏は、著書「陰翳礼讃」の中で西洋と日本を対比させつつこのような一文を書かれています。
左様にわれわれが住居を営むには、何よりも屋根と云う傘を拡げて大地の一廓の日かげを落し、その薄暗い陰翳の中に家造りをする。もちろん西洋の家屋にも屋根がない訳ではないが、それは日光を遮蔽するよりも雨露をしのぐための方が主であって、蔭はなるべく作らないようにし、少しでも内部を明かりに曝すようにしていることは、外形からみても頷かれる。日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない。しかも鳥打帽子のように出来るだけ鍔を小さくし、日光の直射を近々に軒端に受ける。けだし日本家の屋根の庇が長いのは、気候風土や、建築材料や、その他いろいろ関係があるのだろう。たとえば煉瓦やガラスやセメントのようなものを使わないところから、横なぐりの風雨を防ぐためには庇を深くする必要があったにのであろうし、日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくああなったのであろう。が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがて美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生まれているので、それ以外に何もない。西洋人が日本の座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰翳の謎を解しないからである。われわれは、それでなくても太陽の光線が這入りにくい座敷の外に、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして、室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。われわれは、この力のない、わびしい、はかない光線が、しんみり落ち着いて座敷の壁に沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。(中略)
もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は黒色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使い分けに巧妙であるかを感嘆する。(「陰翳礼讃」から)
宮崎氏は著書の中で谷崎潤一郎氏に呼応するかのようにこう書かれています。
ぼくがどんな家に興味を持つかというと、それは「闇」みたいなものがある家ですね。それを作った人や住む人の、心の襞の奥行きが感じられるような。そういう家に出会うと、どういう人が住んでいるのか、どういう景色が家の中にあるのかを知りたくなります(「トトロの住む家」から)
この本を読み、私たちやお客様が庭作りの中で実は最も作りたいと思っているのは、無意識に持つこの「闇」の記憶なのかもしれないなと感じています。
庭と建物に潜む濃淡の美しさ。それが私たちの求める「味わい」の源泉かもしれません。
最後に宮崎氏の一文を抜粋いたします。
そうなのだ。住まいとは、家屋と、庭の植物と、住まう人が、同じ時を持ちながら時間をかけて造り上げる空間なのだ。私たちの住むこの土地では、少しでも隙間があれば植物は生えてきてくれる。その植物たちと、生きもの同士のつきあいをしている家、時には困惑し、時にはためらいながら鋏を持ち、でも、植物へのいたわりを忘れない家。それが良い家なのだ(「トトロの住む家」から)
投稿日:2018/09/26