生活者としての庭、素人から「個人的」プロへの成長物語

『安曇野の白い庭』 丸山健二 著 2000年4月 新潮社

安曇野の白い庭

この本は、是非これから庭作りをする人、また、しなければならないと考えている人、庭作りなんか本当はしたくない人にお薦めしたいと思っています。

その理由は、「なぜ人は庭を作るのか?」というシンプルな問いです。

この本には、その問いを考えるヒント、またその一つの答えがあると思い、ご紹介させていただきます。

庭は何のために作るのか?を考えるヒントがある本

昭和の時代までは、庭はお客様をもてなしたり、家格を表したり、庭は「家」を表現する社会的な記号であった側面もあります。しかし、現在の家は、リビングを中心にした「家族のための箱」であり、家格や世間体などの要素はなくなろうとしています。そのような時代の中で、再度、では「何のために庭を作るのか?」という疑問は誰にでもあるのではないでしょうか?花や植物が好きな人は、それらを愉しめる「場」として庭を作る正当性をお話になることができるでしょうし、本当に「庭」好きの方もおられます。でも、それ以外の方も実際多くいらっしゃいます。誰にとっても普遍的に「庭を作る理由」がある訳では残念ながらありません。

この本の中で丸山健二氏もまた、ひとりの生活者としてそのことを書かれています。

  •  安普請のせいもあって、家の中の花瓶の水までもこちこち凍った。家全体が冷凍冷蔵庫と化してしまった

  •  物見高く、中傷好きの、他人の不幸を異常に喜ぶ人々のあまりに露骨な視線を何とかして遮断したかった

これが、この物語の始まりです。

何か身に染みる話です。
家の寒さを防ぐための防風林と近所の目線を避けるための遮蔽の生垣。

誰にでもあることです。そう、丸山氏は「庭」なぞを芸術家気取りで作ろうとされて、庭作りをされ始めた訳でないことを素直に書かれています。遮蔽のために木を植える。日陰を作るために木を植える。人が入って来ないように防犯フェンスの替りにする。草が生えないようにレンガを敷く。実は、「庭」を目的とせず、私たちは木を植えたり、砂利を撒いたり、レンガを敷くことがあります。

そんな庭未満の世界を書いてくれている「ガーデニング本」は、当り前ですがありません。どの本も「庭」ありきです。そこが、庭のスタイルブックなどを読んでモヤモヤした気分になっている人を助けてくれます。

庭つくりの中で、実際に起こる「あるあるネタ」として面白い

この本はそんな「生活者」である丸山氏の視点から描かれていきます。ですから、「庭とは何か?」という高尚な話は前段ではあまりなく、以下のようなタイトルが並びます。少しご紹介します。

  •  7章「電動刈り込み鋏の威力に感嘆の声をあげる」

  •  8章「毛虫退治に窮してヒマラヤ杉などを次々に切り倒した」

  •  9章「水撒きは単調で退屈だが、植物をじっくり観察できる」

など至極実際的な話が続きます。

素人が自力で誰にも教わらず庭作りを行なう悪戦苦闘の物語でもあるので、庭つくりを一度でも経験された方は、思わず膝を打ってしまうようなシンパシーを感じられると思います。

自分が植えた木に虫がついているショック。まさか、植えた木が大きくなりすぎて切り倒さねばならないシーン。便利な除草剤で変調する樹木。思うように伸びない植物。実は、それは、誰にでも必ず起こる「あるある」ネタでもあります。植物は、「生き物」なので実際は、人が思うほど順調に生育してくれませんし、一方予想以上に生育したりします。つまり、植物と向かい合うことは頭でイメージするほど単純ではありません。

そうした悪戦苦闘を通じて、ただ利便性のために植えた植物に氏は少しづつ向かい合っていかれます。

ただ、この物語の一番の核は、そうした生活者であり庭に関しては素人であった丸山氏がいつしか自分自身の「庭師」に成長していき、「自分の庭」を発見していくプロセスだとも言えます。様々な経験を積みながら、知らず知らずの内に自分の求める「庭」に出会っていくくだりは、冒険を通じて成長していく勇者のようにも見えます。

誰しも、最初から自分が欲しい庭をイメージすることは難しいですし、果たして、庭なぞ要るのかさえあやふやで定かでありません。何冊もの庭の本を眺めても、全てが素晴らしく感じる一方、何か腑に落ちないような気がするものです。植物は、四季を通じて姿を変えます。鮮やかな新緑の一方、落葉樹の冬姿は思いがけず寂しい枝を剥き出しにしたりします。光の強さで、色も変わります。年数が経れば、石やレンガの色も変わっていきます。「完成品」を買うことに慣れている私たちにとって、一年を通して見える庭をすんなりイメージすることは大変難しく、複雑なものだとも言えます。

私たちが庭に求めているもの。そのひとつの答えがある。

10年くらい前から、お客様からこんな言葉をよく聞くようになりました。
「庭はいらないけどグリーンは欲しい」

当初、実は何を言われているのか全く解かりませんでした。
「庭にはグリーンがあるではないか?庭でないグリーンなど植木鉢に入った観葉植物じゃないの」とさえ思っていた頃もあります。

「グリーン」と「庭」って何が違うのでしょう?

「庭」には、作法や流儀、タブーなんかが満ち溢れていて、ややもすると近寄りがたい雰囲気もあるように思われています。所謂、「決め事」や事前知識がいる世界という感じもします。それを知らないと手足を出せないという印象も受けます。

そうした伝統を感じる世界はやや重い。カジュアルな私たちは一刻も早くそんな場所から立ち去りたい。「庭」なんか要らない。でも、「グリーン」が嫌いなわけでない。

そんなお気持ちを代弁している言葉なのかもしれません。

丸山氏は、こうした「お行儀」なぞ一切気にされていません。彼を支えているのは、「世間体」でも「家格」でもなく、「自分の好き」です。言葉を変えるなら、「自分の求める美しさ」であり「空間」です

この気持ちは、現代の私たちに通じるものがあります。思わず応援したくなり、また、一方、氏の洞察に驚嘆します。少し長いですが抜粋します。

  •  森や山を埋めている植物は、そのひとつひとつが、きちんとした、押しも押されもしない理由があってそこに存在しているのだ。というよりも、そこに適していない植物は残らず淘汰されて、生き残った物だけでその森とその山を造っているのだ。そこに根付かずに、枯れていった植物に思いを馳せる者は少ない。

    しかし、造園の美はあくまで人為から生まれる世界であり、自然とは厳しく一線を画していなくてはならない。芸術における美とは本来そういうものなのだ。庭もまた人間の造った偉大な芸術作品に他ならない。もし、庭を自然のままにしておけばどういうことになるかは、一年ほったらかしにしておけばすぐわかるだろう。病害虫によって、あるいは、水不足によって、あるいはまた、不適格によって、たちまち必然性のない植物の無残な墓場に化してしまうだろう。

    自然な感じの庭をめざしたいというのは、近頃しばしば耳にするひとつの理想像である。ところが、いざ実現させるとなると、それが至難の技なのだ。むしろ、かっちりした、いかにも造りましたよという庭よりも数倍難しい。試して見ると大仕事だ。のべつ細かいところに神経を配っていなければならない。それに、たったひとつのミスで、庭全体を損ねてしまうことがある。ほんの気まぐれで庭の片隅に植えたバラや洋ランが、それまでせっかく自然に見えていた庭を一瞬でぶちこわすのだ。

  •  良い庭というのは、そこに長時間佇んでいたいという欲求に駆られるかどうかで見分けられる。それも、実際に長いこと庭に釘付けになっているようでなければならない。けばけばしい色の花でいっぱいの庭は瞬間的に目を引き、はっと息を呑むが、その光景を美しいと感じるのは束の間に過ぎない。また、幾何学的な配置できっちり造った庭にしてもすぐに飽きてしまう。地味でも立ち去りがたい庭こそが素晴らしい庭と言えるのだ。

    一部の建築家が好む庭というものは、なぜか瞬間の感動しか与えてくれない。目をやったばかりは確かに魅せられるのだが、ものの数分も経たないうちに、庭の浅さに、不自然さに、生き物である植物をオブジェのようにしかとらえることのできないセンスにうんざりしてくる。深みというものがまったく感じられず、あまりに刹那的でないかと怒りが込み上げてくる。

    良い庭から心の安らぎを得られるのは、たぶん自然を錯覚するためだろう。動物としての本能を刺激されるからだろう。ところが、森や山といった本物の自然の真っ只中に身を置いても、決して同じようにゆかない。感動は得れても真の安らぎを得られない。これは思うに、恐怖の有無の差ではないだろうか。大自然の中にあるのは美だけではない。ありとあらゆる危険も抱き合わせとなっている。草むらに毒蛇が潜んでいる。尾根に達したところで熊が待ち構えているかもしれない。崖崩れが、雪崩が、土石流が、そして、日没と同時に、恐怖の一番の対象であるところの真の闇が押し寄せてくる。

    庭にはそれがない。夜になったら明かりをつければいい。要するに、そこにあるのは安心のかたまりの空間なのだ。

やや哲学的になってきてますが、こんなことを書いてくれるガーデニング本があるでしょうか?

「庭」は(自分が)見ようとしている(見たい)自然であって自然そのものでないこと。また、(自分が)佇みたい空間であり、安全と安らぎを得られる場所。そんな風にも意訳できます。

この中に見える庭は、偉大な庭でも素晴らしい庭でもなく、ただ美しい庭でもありません。その庭の所有者が良いと思う空間であり、安全で安らかな世界です。あくまで、「個人的空間」なのです。お行儀も作法も必要ありません。

庭でなくグリーンを素直に愉しむ気持ちが始原となって、いつしか「庭」へ通じていく。その庭は、自分自身でもわからないものなのかもしれません。

一体どんな庭が自分に向いているのか?悩むお客様にたまにお会いします。そんな時、庭を作らねばならないという義務感を忘れて、まず、一本、鳥のためでも蝶々ためでも、収穫のためでも、紅葉のためでも 家族のために木を植えてみれば、何か見えてくるかもしれないと思います。

素直で率直で形式にとらわれない自分自身のガーデンニングの冒険記として是非お奨めします。

投稿日:2017/08/21

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